私は、鳩ヶ谷で生まれ、30歳まで鳩ヶ谷に住み、37歳からは鳩ヶ谷で医療に携わってきました。現在58歳ですが、うち51年を鳩ヶ谷との関わりのなかで生きてきました。「私の鳩ヶ谷」について、話させてください。
私の小学生のころの鳩ヶ谷(50年前)は、春には歩いてつくしをとりに行ったり、沼でオタマジャクシを網ですくってとったり、見沼用水でフナやメダカやタナゴを釣っていました。1年生の時に、台風で芝川が氾濫し、蕨への道路が通行止めになりました。変電所の先にできた鳩ヶ谷大橋に立つと、見渡す限りの田んぼの中に、遠く中居小学校をみることができました。変電所に落雷が落ち、よく停電になりました。なんせ変電所の周りは田んぼばかりで、高い建物はありませんでしたので。
その頃には、鳩ヶ谷中心部にも、清水内科医院や渡辺小児科医院があり、熱が出るとすぐに連れていかれ、診察をうけ、薬をもらって帰ってきました。口のなかにルゴールを塗られるのをいやがり、グズル私をなだめるため、帰りにキャラメルを買ってくれた若き日の母親を思い出します。その母も、一昨年90歳で他界しましたが、結婚以来65年住んでいた鳩ヶ谷の思い出として、東京大空襲の時の、鳩ヶ谷から見た東京の真っ赤な空を忘れられないと話していました。
鳩ヶ谷市民念願の地下鉄が通り、鳩ヶ谷の街も変わりました。市の中心部も駅の周辺にかわりつつあります。鳩ヶ谷の旧市街は江戸時代からの、日光御成街道の宿場町であり、元気なお年寄りも多く見かけます。一方、旧市街には、お医者さんはきわめて少なくなっています。
37歳から20年間、埼玉厚生病院に勤務し、鳩ヶ谷市南で医療をおこなってまいりましたが、このたび、さらに出生地に近い鳩ヶ谷の本町で開業したいと思っています。私が生れ育ち、まさに故郷である鳩ヶ谷で、恩返しもこめて、粉骨砕身、地域医療につくすつもりです。
宜しくお願い申し上げます。
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